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61.「至言」〜オスカー・ワイルド

私たちは自分に関係のない事柄についてのみ、真に公平な意見を述べることができる。

公平な意見がいつも価値をもたないのは、このためである。

62.「風と共に去りぬ」

映画「風と共に去りぬ」は、ヒロインの選定、スペクタクルシーンの撮影、主演俳優の

トラブルなどの困難を乗り越え、1939年9月に完成した。マーガレット・ミッチェルの

原作が発表されたのが1936年で、こんな書評があったそうである。

「今年わたしが読んだ小説でベストスリーをあげるとすれば、それは3つとも『風と共に去りぬ』である」

映画が完成すると製作者のセルズニックは、極秘の試写会を開いた。この映画をもって、

ある映画館へ車で向かった。この映画館は、別の映画を見にきた客で満員だった。

これから「風と共に去りぬ」を上映したいと聞いた映画館の支配人は驚いたが、タイトルを伏せて

場内アナウンスをした。

「ただいまより本年度最高の話題作をお見せします。上映時間は4時間です」スクリーンに

タイトルが現れると驚きと喜びのため息が客席にひろがって、次々と立ち上がる

観客たちの歓呼で騒然となった。映画が終わっても、場内は1分間ほどしんと静まり返っていた。

やがて、いっせいに拍手がわき起こりいつまでも鳴り止まなかったそうである。

63.「至言」〜パスツール

子供に接すると、二つの感情を味わわずにいられない。子供であるということに対するいとしさと、

その子が将来、いかような人物にもなりうる可能性を秘めていることに対する、尊敬の念である。

64.「至言」〜メーテルリンク

私は、内なる自分さえもよくわかってはいない。それなのに、他人の行為を判断しろなどと

言うのは、どだい無理な話である。

65.「孤独の旅」〜トマス・マートン

人の話に耳を傾けるということは、もはやすたれてしまった。

沈黙も同様である。

われわれはただ、小さな憤怒のカプセルにはいって、孤独の旅をつづけているだけである。

66.「いたずら」

英国の歴史的ないたずらの名人はというと、ホラス・コールに

とどめをさす。

ケンブリッジの学生時代にやったいたずらが特に有名である。

ザンジバルのサルタンが英国訪問時に、コールはサルタンの格好をし、

豪勢なお供をつれてケンブリッジに現れ、市長と大学から

盛大な歓待を受けた。

次の日、新聞にほんもののサルタンの動静が報道されて、

このいたずらは露見した。

犯人はわからずじまいで、コールとその仲間が犯行を自供したのは、

彼らが無事に大学を卒業したあとのことだった。

昨日、ある本を読んでいたら、コールは1910年にも

エチオピア皇帝の公式訪問をでっちあげ、海軍のドレッドノート号を

訪問したのだった。

英国海軍をだましたこの事件は当時の社会にけっこう大きな

衝撃を与えたらしい。

なにせ軍艦内部の機密の部屋まで見せてしまったからである(笑)。

この事件にはちょっとしたオマケがついている。

皇帝の従者のなかに顔を黒く塗り、ローブをまといターバンを巻き、

つけひげまでつけた女性がいた。

この女性こそ英国の天才的女流作家のヴァージニア・ウルフだった。

コールとは親しい友人だったのだ。( 写真一番左がウルフ)

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67.「ピトケアン島」

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南太平洋上に、面積5平方km 人口73人が住む小さな島、ピトケアン島がある。

このピトケアン島の成り立ちには、想像を絶する興味深い話がある。

英国は、1787年にパンの木の苗木を求めるためタヒチに戦艦「バウンティ号」を派遣した。

植民地である西インド諸島の奴隷労働者の食料不足を打開するためであった。

乗組員たちはタヒチで酒と女の夢の8ヶ月を過ごした後、1789年4月に帰国の途につく。

ところがトンガ諸島沖で、乗組員の船長に対する不満が爆発し、一等航海士のクリスチャンが

船長ブライほか18人を小型カッターに乗せ追放してしまう。これが有名な「バウンティ号の叛乱」である。

反乱者らはただちにタヒチに戻り、原住民を拉致し、タヒチから2200km離れたピトケアン島に上陸した。

乗組員9人、原住民24人(男6人、女18人)この後、互いに殺しあったり、病死などで

1808年にアメリカの捕鯨船によって発見されたとき、男1人、女性9人、子ども19人になっていた。

1825年には英国から恩赦を与えられ植民地となった。その子孫たち73人が今もその島で暮らしている。

68.「ガラパゴス・ミステリー」

ガラパゴス諸島は南米エクアドルの海岸から西へ1000kmのところにある。巨大な火山の頂上が

島となったもの。今では居住区に15000人もが居住しているが、1900年始めには、捕鯨船が

たまに補給に立ち寄るだけの無人島だった。今日の話の舞台はガラパゴス諸島のなかのフロレアーナ

(サンタ・マリアともチャールズともいう)島である。1929年9月にドイツ人医師リターとその愛人ドールが

この島に2人きりで移り住み、自活をはじめた。このニュースは世界に流れ、やがて1932年8月には

ドイツ人の家族3人が島に移住してきた。さらに、その年の11月にはバロネスと名乗る女性が

4人の男性を従えてやってきた。バロネスの移住は島に猜疑、憎悪、暴力をもたらし破局へと

突き進んでいく。1934年3月にバロネスたちが失踪し、後に男性2人が死体で発見された。

さらに、その年11月にドイツ人医師リターが鶏を食べたあと急死してしまう。 食中毒とも

愛人のドールの仕業とも言われている。1934年12月にドールは島を去り、真相は多くの謎を

残したまま歴史の波間に消えた。

69.「小津安二郎」

小津安二郎は、独自のスタイルを守り、「晩春」「東京物語」「秋刀魚の味」などで世界的な

映画作家となった。日本の些細な家庭のできごとを描いたにもかかわらず、普遍的なこととして

世界に受け入れられ理解されたのだった。世界の映画関係者の選ぶ映画ベストテンでは

「東京物語」が常に入っている。私はヴィム・ヴェンダーズ監督は好きではないけれど、次の

言葉で少しは見直した。

「私が小津さんの作品を知ったのは、最近のことです。よく覚えていますが、72年のニューヨークでした。

偶然『東京物語』上映中の映画館に行き当たりました。雷にうたれた感じで、最初から最後まで、

泣き通しでした。実は、私はそれまでに一度も泣いたことがなく、まして映画を見て泣くなどあり得ないと

思っていたのです」

小津の次の言葉が好きです。

「ぼくの生活条件として、なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは

自分に従う」

70.「チャールトン・ヘストン」

ヘストンは私の好きな俳優ですが、2002年8月9日にアルツハイマー病の疑いがあることを

自らビデオ会見で明らかにした。告白の理由についてヘストンは「もっとひどくなったとき、

自分で公表できなくなるかもしれないから」と語った。 さらに、「私の足取りに元気がなくなったり、

あなたの名前を思い出せなくなったら、それは病気のせいです。もし私が同じ冗談を2回言った

としてもどうか笑ってください」と静かに話したという。

71.「アラン・スミシー」

1960年代後半から登場する「アラン・スミシー」という映画監督を知っていますか。

「ガンファイターの最後」、「ハートに火をつけて」、「デューン/砂の惑星・特別篇」を

監督してハリウッドでは結構、有名な監督です。でも、実はこの「アラン・スミシー」は

架空の名前なのです。アメリカでは映画製作会社やプロデューサーが、強い力を持っているので、

けっこう無茶な要求を監督にし、それがこじれて監督が降板することがあります。

製作初期の段階なら、他の監督に交代となりますが、終盤ともなると、たいへんなことに

なります。監督は自分の名前を使わせないから、製作者側は監督名に架空の名前を

使ったりします。その監督名が「アラン・スミシー」なのです。「アラン・スミシー」監督の映画が

過去30本前後作られています。

この監督名をみたら、この映画は製作段階の終盤でトラブったなと推測できるのです。

最近、映画サイトを見ていたら、アラン・スミシー Jrというのもあった(笑)。

72.「履歴書」

ある男性の話、

新しい仕事を探しているあいだ、私はおびただしい数の企業に履歴書を送った。

送り返されてきた履歴書に添えてあった手紙のうち私の気に入ったのは

(こんな手紙を気に入るなんて妙な話だが)ある児童図書出版社からのものだった。

「あなたは、今回は残念ながら不採用と決定いたしましたが、これからも、いつまでも

いつまでも幸せにお暮らしくださるよう、お祈り申し上げます」

73.「ある天文学者の話」

「宇宙は実に単純なタイムマシンだ。その仕組みにはとくに変わったものはなく、あるのはただ、

はるかなる距離だけである。宇宙の深みに目を凝らすとき、われわれは果てしない時間の深遠を

のぞきこんでいるのだ。われわれが目にするケンタウルス座のアルファケンタウリの姿はわずかに

.3年前のものだが、これがアンドロメダ星雲となると、200万年以上も昔の姿を見ていることになる。

われわれの現在は、無数の過去の真っただ中に位置しているのである

74.「エヴェレスト登頂ツァー」

観光ツァーは旅行会社がすべてのお膳立てをしてくれて、ガイドの指示に従えば目的地まで

安全に行くことができる。

エヴェレスト・ツァーというのがある。かなりの程度の体力のある人なら、ベテランのガイドが、

エヴェレストの頂上まで連れて行ってくれるツァーである。費用はひとり400万円〜800万円で、

期間は3月末から5月までの約一ヵ月半。ネパールからカトマンズに向かい、そこからヘリなどで

エヴェレストの麓の町まで飛ぶ。そこからトレッキングで体を高所に順化させながら一週間ほど

かけてベースキャンプ(高度5360m)まで行く。そこから頂上まで1次キャンプ(6160m)、

2次キャンプ(6660m)、3次キャンプ(7300m)、4次キャンプ(7890m)を上ったり下ったりして

体を完全に高所に馴らせる。そしてベースキャンプ到着後2週間前後で頂上をアタックする。

1996年5月10日には2つのツァー登山隊を含む数パーティーの登山者で頂上は込み合い、

突如襲った悪天候のため8人もの死亡者を出した。難波康子は、このときツァー登山で参加し、

日本で二番目の女性エヴェレスト登頂に成功したが、下山時に犠牲となった。

ちなみに、エヴェレストで遭難した犠牲者の数は現在までに150人以上で、頂上を目指した

登山者の30人にひとり、登頂を果たした人の5人にひとりの割合で亡くなっている。

75.「チベットの別れ」

ハレルの「チベットの七年間」によると、

チベットの風習で魅力的なもののひとつは、旅立つ友を見送るときのしきたりである。

誰かが旅に出るときは、友人たちが町から2、3キロ離れたところにテントをはり、

ごちそうを用意して、旅人の来るのを待ちうけ、腹いっぱい、元気いっぱいにして送り出すのである。

76.「ヘレン・ケラー」

アン・サリバンがはじめてヘレン・ケラーに会ったとき、目も見えず、耳も聞こえないヘレンは6歳だったが、

まるで野獣のように手に負えない子だった。


自分の意にそわないと、家族をつねったり、けったり、かみついたりした。

サリバンはヘレンが自分をつねるたびに、ヘレンに平手うちをくわせた。

後日、ヘレンが回顧録を書いたとき、「平手うち」の記憶は失せ、はるか昔はじめて

愛する先生に会った思い出を書いた。

「足音を感じたので母親と思って手を伸ばした。だれかが手をとり、私は抱き上げられ、

その人の腕にしっかりと抱かれた。

その人こそ私にあらゆることを教えに来た人、いや、何よりもまず私を愛するために

来た人だったのである」

I felt approaching footsteps. I stretched out my hand as I supposed to my mother.

 
Someone took it, and I was caught up and held, close in the arms of her who had

come to reveal all things to me,

and, more than all things else, to love me.)

77.「ぼくの作文」

実際に新聞にのった小学3年生の作文

ぼくは、いま、なみだがひとりでに出てきて、とまらない。

それは、夏休みが終わって学校に行ったら、みんながいろいろな所にあそびにいった時

の話をしたからだ。

しんせきの子たちも、いろいろの所に行ったり、おもちゃをかってもらつてたのしそうだった。

けれども、ぼくたちは「夏休みには、どこかへつれていってやるよ」とやくそくをしたのに、

どこにも遊びにつれていってもらえなかった。

おかあさんもおとうさんも「お店がいそがしいから、あとでつれていくよ」というだけ。

ぼくは『けち、けち』と思った。なみだが、つづいて出てくる。お店やさんは、いやだなあー。

なみだをおかあさんが見て、おふろにはいった時「かなしいこと、つらいことがあっても、

がまんできなくてはりっばな人には、なれないよ。まあちゃんが大きくなって、りっばな人に

なったら、どこへでも遊びに行きなさい。その時、おかあさんもつれてってくれたら、こんどは

おかあさんのなみだが、とまらないだろうね」といった。ぽくは「なみだ君さようなら」と思った。

78.「父の話」 sophieさん

☆今朝テレビで円広志がしていた話です。

彼のお父さんが昔小学校6年生の担任をしていたときの話です。

クラスに何一つ目立たないような男の子がいたんですが、6年間1回も休まなかったので、

そのことを親御さんに伝えるために、その子といっしょにはじめてその子の家に行きました。

なんと歩いて3時間もかかった、というのです。家に着いた時にはもうあたりは真っ暗でした。

8時半の始業に間に合うために毎朝5時半に家を出てきていたのです、6年間一日も休まずに。

父は思わず胸がいっぱいになって、その子を抱きしめました。

その小さな子に尊敬の念をおぼえたということです。

☆彼の話のようにうまく伝えられませんが、最近涙腺が弱っているので、泣けまし

た。とてもいい話ではありませんか。

79.「モルモット」

実際に新聞にのった小学3年生の男の子の作文

おとといの木曜日、朝モルモットの"オリーブ"にえさをやろうとしたら、オリーブが自分の生んだ

二ひきの子におちちを飲ませていました。

ぼくは、思わず「あっ」と言ってしまいました。そして「たいへんだ、たいへんだ。おかあさあん。

モルモットが赤ちゃん生んだよ!」といって、ろうかをどたどたかけて行きました。

お茶の間で、もう一度大声でおかあさんに「おかあさん、モルモットが赤ちゃんを生んだよ!」といいました。

するとおねえさんが、朝ごはんを食べながらいつものように「またーうそいってる」といいました。

おかあさんは、びっくりしてすぐげんかんにきてモルモットのはこをのぞいて「あら、ほんと。

かわいい赤ちゃん生んだわね。こうなると、やっばり大事にかわなくちゃねえ!」といいました。

ぼくがかったペットのうちで、子を生んだのはモルモットが初めてです。ぼくは、今まで、たたみやさんで

わらをもらってきて、箱のわらを取りかえてやりました。また、ハコベやタンポポを原っぱで取ってきて

やりました。おかあさんから、野菜の葉っぱもたくさんもらいました。

でもこうやっていっしょうけんめいかっていて、よかったと思いました。

ゆっくり見ていたら、なんとなく悲しいようなうれしいような気がして、なみだが一つぶこぼれてしまいました。

80.「発想」 Mさん

きれいなバラにとげがあるといってこぼす人があるが、私はむしろ、とげにバラの花があることを

ありがたく思っている。

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